2016年2月19日金曜日

コラム 読後のとまどい

                                 附属図書館 永井一樹


 一番好きな絵本を問われたら、迷わず選ぶ一冊があります。ジョン・バーニンガムの『もうおふろからあがったら、シャーリー』(童話館, 1994)です。入浴中の女の子シャーリーに洗面室からママが小言を繰り返すという話。けれど、夢うつつの彼女はバスタブの排水管からこっそり抜け出し、森で出会った騎士に連れられ王国を旅します。やがてたどり着いた城で王様と女王様に歓待されるのですが、この辺りから脈絡がなくなってきて、彼女はさきっぽにボクシングのグローブがついた棒をふりまわし、ふたりを池に突き落としてしまいます。圧巻は、王国からお風呂に戻ったシャーリーが裸でママと向き合って立つ不気味なラストシーン。何のセリフもオチもなく、唐突にそこで物語は終わるのです。
 
 圧巻と書きながら、そのシーンの何がいいのか自分でもよくわかりません。この絵本には、結論とか教訓とか、あるいは救いとか慰めといったものが用意されていません。だから、絵本を閉じたとき、読者は何か突き放されたようなとまどいを覚えます。私はいったい何を読んだのか、と。しかし、このとまどいこそ、この絵本の最大の魅力というべきなのかもしれません。

 というのは、これとよく似たとまどいを、私は最近とある映画で味わったのです。
 それは、『パリ20区、僕たちのクラス』(ローラン・カンテ監督, 2008)というフランス映画で、題名から金八先生のような学園ものを想像しそうですが、全然違います。クラスは終始、まとまりそうでまとまらないし、かといって崩壊もしません。どこにでもありそうな教室の日常風景を淡々と描写していくだけなのですが、それが妙に生々しく映るのは、原作者である元教師を主役に据え、生徒役は演技経験のない現役中学生という異質なキャスティングゆえでしょうか。すべてのシーンが学校内で撮影され(フランス語の原題は『壁の内側』というらしい)、おおむね教室と職員室の繰り返し。でも飽きるどころか、ますます引き込まれていきます。シャーリーとママの関係がそうであるように、生徒と教師のコミュニケーションはどこまでも平行線を辿るばかり。終盤、移民の生徒の暴力事件をきっかけにその不和は沸点に達します。かと思いきや、誰も狂気を露わにせぬまま、すぐにまた平凡で穏やかな日常に戻ってしまう。映画を観ている身にとっては、はぐらかされたような気持ちになるのが不思議です。放課後のコンクリートの校庭で、生徒と教師がサッカーに興じるシーンがあります。今まで反目し合っていた者同士が、体を触れ合いながら無邪気にボールを追いかけている牧歌的な光景。それが、なんともいえず不気味で、なんというか、つじつまが合わないのです。そうして、物語としてのまとまりを欠いたまま、この映画もまた唐突に幕を下ろします。
 
 バーニンガムの絵本の翻訳を多く手がける詩人の谷川俊太郎に「父の死」(『世間知らず』(思潮社、1993)所収)という詩があります。映画を観終わったとき、ふとその一節を思い出しました。「死は未知のもので/未知のものには細部がない/というところが詩に似ている/死も詩も生を要約しがちだが/生き残った者どもは要約よりも/ますます謎めく細部を喜ぶ」。

(兵庫教育大学附属図書館メールマガジン「Library News」No.28(2016.2.19発行)より)



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